周りの期待に応えるということ③

家族
 
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プライドによってもたらされたもの

 
僕は、幼少期から周りの人の期待に応え、いつしかプライドがつき、それによって何をもたらされたのか考えてみました。
 
 

1. プライドによってもたらされてしまったもの

 
それはまず第一に、僕は色々な場面で素直になれなかったこと。
 
プライドが邪魔をして、本心を言えなかったり、本当は不安で自信がないのに、周囲の人にそれを表出できなかった。
 
プライドが崩壊すると、今までの自分が否定されるように感じて、いつも出来るアピールをせざるを得なかったのです。
 
 
本来、自分は強い心を持つ存在でも無く、どちらかというといつも結構楽なほうを選んで怠けていたい。そんな性格なのです。
 
 
もっと弱みを正直に出せれば、周りの人からももっと好かれる存在になれていたかもしれません。
これは今でも、悩みかなあ。。。
 
 

2. プライドがもたらしてくれたもの

 
 
 
これは、僕が何でも自信を持って物事に取り組める原動力をくれた、ということです。
 
プライドがあることで、一時期は囚われて、自己決定や主体性を失いかけましたが、やっぱり自分は、「自分の大事なことは自分で決めていけるようになった」のかなあと思っています。
 
 
「自分がありのままの自分であること」
 
 
言い換えれば、理想の自分を目指し続けることを守り維持してくれる、「自我」を獲得できたのかな?と思います。
 
 
 
ちなみにフロイトの精神分析において、自我はこう説明されています。
 
自我はエス(本能的なエネルギー)からの要求と超自我(自分に根付いた規範・倫理)からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的に防衛を行い、エスからの欲動を防衛・昇華したり、超自我の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、調整的な存在である。全般的に言えば、自我はエス・超自我・外界に悩まされる存在として描かれる事も多い。
自我は意識とは異なるもので、あくまでも心の機能や構造から定義された概念である。有名なフロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」という発言がある。自我の大部分は機能や構造によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられるが、この防衛は人間にとってほとんどが無意識的である。よって「自我=意識」と考えるのには注意しなくてはならない。
ちなみに「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別されている。日本語においての自我という言葉は、一般的には「私」と同意に受け取られやすいが、それは日常語の範囲で使用する場合にのみ当てはまる。
ーーーhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91  Wikipediaより一部引用
 
 
 
僕は、「期待」によって育っていったのは、この精神分析に描かれる、エスと超自我を調整する役割を持つ「自我」なのではないか、と考えています。
 
 
 
 
この力はきっと、これからも僕を呪い続けながらも、成長させ続けてくれるものであると信じて、向き合い続けていこうと思います。
 
 
 
 
 

プレッシャーになるし辛いけど、それでも僕は他者に期待したい

 
「期待」というのは、他者にかければ、時にはその人をプレッシャー下に追い詰めてしまうことにもなりかねません。
 
 
 
 
それでも、僕は娘に期待したいと思っています。
周りの家族・友人、、、また、看護師として出会う対象者にも期待したい。
 
 
 
 
だって、僕はその人たちが大好きだから。
 
 
 
 
誰かのフォローは必要ですが、きっと人は期待されることで成長していける。輝いていける。
 
 
 
 
僕はそう信じています。
 
 
おわり
 
 
p.s. 3回にわたって全てお読み頂いたみなさん、ありがとうございました^^